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村 の 歴 史 (大 正)

西暦(年号)新しき村の歴史
1918年
(大正7年)

7月、「ある国」(のち「新しき村に就ての感想」)を大阪毎日新聞に発表。月刊<新しき村を創刊>。

○8月、新しき村本部を東京に作る。

○大阪の茶谷半次郎1,000円の寄付金と兄からの寄付金1,000円、その他400円」合計2,400円を基本金として新しき村の建設に着手。

○11月、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に「新しき村」の土地面積8,500坪を取得して建設。城は三方を小丸川で囲まれ、四方は高い山々の美しい土地で、石河内から渡し舟を使って交通した。城で正式に登記されたもの次の通り。畑7筆で1町1反8畝7歩。田15筆で1町3反2畝13歩。宅地9坪。山林3畝9歩で、合計2町5反4畝8歩(7,628坪、城の民有地全部で8,500坪余りの内)、他に官有地の借地1町5反7畝8歩があり、実況は当時記録されたようなものだろう。

○石河内に家を借りて住み、城に通って働いた。早速麦や野菜などの種まきはじめられ、開墾、果樹の仮植、合宿所建築、その他色々な計画が立てられた。

○御飯は、米6麦4くらいにして1日平均一人当たり約5合、小遣は、1ヶ月大人1円子供50銭。11月17日から12月31日までの食費は、217円92銭(一人当たり約12円。)。

第二種会員から毎月50円程度金が集まる予定にしてあります。ここ7,8カ月の処それが集まらないと私達は栄養不足になり兼ねません。よろしくお願いします。

○最初の住人は大人18人子供2人・合計20人。

○同年12月末日のまでの収入は基本金を含めて合計4,000円であった。

1919年
(大正8年)

○大人28人・子供4人合計32人。35坪の母屋と中村の家(7坪)弓野、長十郎、辻の家などができた。

○我孫子にあった自宅を志賀直哉に頼んで5,396円で売却してもらい、1,000円を志賀に渡し4,950円が実篤へ送られてきた。実篤は、全財産を新しき村に投入して無財産となり、その後はもっぱら原稿書きで新しき村の必要な資金を稼ぐことになる。

○最初の麦作は上出来であった。唐芋、大根等野菜類も収穫され、各種の果樹苗木の植え付け、桑苗、竹の植付もされた。山羊2、豚2、馬1頭も飼われたが、建築、薪取り、炊事等が主な仕事になった。

○11月28日~12月31日までにとれた農作物。唐芋45貫、大根10貫700匁、茶8貫。他に唐芋390貫貯蔵、大根6樽を沢庵漬。

1里の山道、しかも空手で登るにも苦しい道や馬も通らぬ道を、5寸角の1間もの赤松のずいぶん重い生木などをかついで、1日4、5回も往復したりして近所の者を驚かしました。近所の人は1日に2回がやっとなのです。武者小路先生の活動ぶりには驚きました。目のあたりに先生が重い木を1人でかついで行かれるのを見ると、たまらない気がします。祈りたくなります。自分はまだ先生の口から一口も苦しいという言葉を聞かないことを皆さんに知らしたく思います(今田謹吾、大正8年5月号「新しき村」)。

○全国に13支部ができる。

1920年
(大正9年)

○大人31人、子供6人合計37人。

○二月実篤の家12坪建つ(4月9日入居)続いて納屋18坪が出来、長十郎の家建て増し、今田の家、松本の家、石川の家、風呂場などと上の合宿12坪創設時代の建物が出来、全員が城の村に住むようにあった。石河内に買った家はお客や入村希望者用に使った。

○下の城に8畝の開田が出来た。開田は少しずつ続く。薪作りが大仕事になったが、国有林などを1年以内で伐採することで払下げを受けた。

○農作は麦、水陸稲、甘藷、唐芋、その他野菜いろいろをつくる。収穫は玄米2石、里芋150貫、甘藷5,600貫、大根沢山その他。

○馬耕ができるようになるなど、農業知識も漸進するが、人員の移動がはげしく、計画倒れになる仕事が多く、最初の年表に「収穫物の始末拙劣なる数年にわたる。」と自ら記している。馬、山羊の他、養兎、養鶏も試みられ、堆肥舎もつくった。

○当時の会計について、新しき村2月号に実篤は次のように書いた。
村の経済は左の方針で暫くやって見るつもりです。
収入の見つもり、400円、内200円寄付、あと私の責任収入。寄付が平均200円以上の時はそれを貯金して3、4ヶ月目に、衣と住の改善、及び土地を買うこと、その他村の生活をよくするためにつかう。寄付がそれ以下の時は私の責任をもっておぎなうこと。
私の責任収入の半分は私の大正日日からもらう月給で、その他は原稿料と印税、それらが200円をこす時、その半分を村のものにし、1割を皆の小遣いにまわし、あと4割を私の自由にしてもらうことにしました。私はそれで本やエを買いたく思っています。その他にも村の役に立つことに使いたく思いますが、10年後にそれで私らしい小さい図書館兼美術館を建てるのを道楽にしたく思っています。それを楽しみにさしてほしく思います。

○米2石、里芋は150貫(562.5kg)。

○東京市外長崎村(現豊島区)に「新しき村」印刷所・曠野社創設(~大正15年)。

1921年
(大正10年)

○「新しき村」最初の住居を兼ねた集会所焼失。すぐ復興にかかる。

○土地のための会の金のうち、430円で石河内の田1反8畝を買う。

○1月27日、母屋が火事で全焼。母屋に住んでいた人達は、実篤の家に2人他それぞれに分宿して、早速復興にかかる。まず建設中の鶏舎に仮設の炊事場と風呂場をつくり、石河内第2の村の家を城にはこぶ。

○集会所を兼ねた食堂(16坪)、実篤の離れ(4坪)、松本の家(9坪)川島の家など出来、実篤は離れに住み、実篤の家には兄弟達が住んだ。渡舟が更新され、小型の発動機をゆずり受けた。

○収穫物は8畝の田から初めて米がとれ、西瓜8貫、とうもろこし、野菜など沢山出来る。桃苗、蜜柑苗植付、新たに1反7畝の開田が行われた(食糧自給の為には4町歩の水田が必要とされた。)。

○水田を増やす為と、村の積極的な発展の為に発電が必要と考え、大水路さくの計画を建てる(4キロ余りの水源から10個以上の水をもってきて開田と水力発電機を起こそうとした。1箇は秒速1尺立法。)。

○自分はこの頃、夜目がさめても、今やっている創作のことを考えるより、水路をつくることや、水を川から上げることや、田をつくることや、水路をつくることや、水を川から上げることや、田をつくることや、池をつくることや、12時間一定の水をたえずながす為にはどの位の水溜が必要か。水を少しでも多くためるのにはどうしたらよいか。池をどういう形にした方が見て気持ちがいいか。水田はどこにつくり、池はどこに掘ったらいいか。電気を起こしたら最初何の仕事をしようかとか、そんなことを考えることに喜びを感じている(6月)。

○今開田洋と電気の為の水路の為に測量してもらっている。今までに電気のためにつかった感は1,200円と、他に今までの水路をなおした45円と、測量に要る手伝ってもらっている人や、そのための入り用品の為に80円許りつかった。土地の為の1,000円の他は僕の本の印税から廻した。(中略)電気の方の仕事は佐郷屋君が主にやり会計は僕がしている。

1922年
(大正11年)

○大人36人、子供4人、合計40人。

○村ができる前からあった水路(その後いろいろの改造を加えて、現在も使われている。)に対し、「大水路」と名付けた水路工事に着工。夏試験通水が行われた(3,000円支払う。)。発電機を購入。
実篤は「4、5町歩の水田をつくり、50人程度の食糧を自給し、電気で副業をおこせば、その後は段々よくなるだろう。水路ができるのが第1歩だ。」と考えた(川島伝吉著「日向の村の思ひ出」)。

○トタン張りの倉庫4坪。下の堆肥舎7坪半。佐々木の家、飯河の家(仮造屋畳1枚)などが出来た。

○(米)3反7畝、水不足のため籾で14俵(蔬菜)。
ニンジン、大根など大出来。養鶏20羽。馬2頭(仔馬が生まれて)。

○梨苗植付、桃若木植付。開田1反7畝。

○8月はじめて「労働祭」が行われ、「百間道路」(公会堂予定地から東、長さ百間)山口県の会員福田勇馬とその教え子達の手で完成。

○津江市作氏を村の農業顧問に委嘱する。

○入村希望者が多く対応に苦労した。この頃から今も実行している1年位仮入村でお互いに確かめ合う形ができた。

○大正11年末の10日間の創作4種、156枚、感想30枚を書きあげて600円~700円稼いだ。その内100円は村の風呂、200円は村の牛を買うため、100円は水路に使った。

1923年
(大正12年)

○大人39人、子供4人合計43人。

○今年から稲作を能う限り増やしたい。梨、柿、びわ、いちじく、梅各20本、桃30本、その他若干の苗木を植えた。これは手入れの完全に出来るように予算の範囲にとどめた。停職理はこれから開墾する。コンクリート造り、ガラス張り、4尺‐2間の温床出来る。村に於ける文明的施設の第一歩と云えると思う。
相変わらず甘藷と里芋と人参の交代料理をやっています。お米は1日平均1斗5升位。この間大阪の茶谷さんから牛に木を沢山寄贈され、皆大喜びでした(平林英子)。

○下の城の合宿、15坪。薪小屋、4坪半。松尾の家(仮造)、森永の家(7坪半)できる。馬1鶏30、子馬は高城の深水に依託。

○米3反5畝(籾12俵)、麦3反(5俵)、野菜色々。兎も飼う。

○石河内の田を奥の田(城の地続き)と交換する。大水路の工事継続。三島章道、志賀直哉等の発起で「新しき村電機事業後援会」(前年発足)より2,200円の寄付があり、その他の寄付もあった。しかし新田は水不足で前々作付不能であった。果樹園の造成進む。

○関東大震災。

○梨、柿、批把、按、桃、無花果を植える。

1924年
(大正13年)

○大人38人、子供5人、合計43人。

○水路工事を続けたが、中々完成せず、水不足はなお続いた(水路は今までも7、8千円かけた。もう水はくるようになったが、もう2,000円ほど書けないと発電所の水路にはならないが、と実篤は書いているが、この後数年間毎月修理費とも150円位を要した。)。

○松本の姉の家(仮造)、石川の家4坪半、風呂場6坪、上の城の合宿12坪、実篤の家4坪をなどつくる。

○村は今6時間労働で、畑に手が行き届き、田の用意も出来、鶏小屋も創作や絵をやっている。以前8時間働いて得られなかったものを6時間で得て来たことは、何よりの進歩と思う(実篤)。

○米3反5畝籾12俵、麦3反5畝、野菜たくさん、馬1、兎100、鶏25、梨若木となり、桃の花咲く。

○「新しき村会」(毎月1口1円を村へ送る会)を提唱。12月1日迄に305円が送金された(下院は井の参加も求め毎月1円を1年間寄付す同志をつのり、希望者には自分の色紙か写真(署名入り)を送るとした。)。

○米12表、麦5表、野菜たくさん、兎百、鶏25羽、馬1。

○11月13日、「新しき村通信」第1号発行。

1925年
(大正14年)

○7月、大人36人、子供6人合計42人。

○古川の家10坪半、房子の家9坪半、印刷所6坪、物置及び浴場3坪など建つ。小舟(2間)、渡舟(4間半)もできる。

○米、麦、野菜いろいろ、馬1、豚2、兎、鶏(12坪の鶏舎を造り種鶏とも3、4羽で拡大を目指す。)、梨若木となる。桃5畝。水路の大改修が前年の洪水で必要となり、水不足で苦労するが、農作業は段々と本格的になって来たことが「通信」の報告で明らかになる。

○6月印刷所の仕事始まる。9月「村の本」(文庫型20銭)第1篇出る。「月刊新しき村通信」も村で印刷され、同人誌「黎明の鳥」も出る(林一雄印刷所開設に働く。)。

○村内有志で劇団「ゲーテ座」を旗上げ。鹿児島を振り出しに九州巡業を行う。出し物はスリンドベルヒの「復活祭」などであった。

○実篤12月(17、8日頃)村を出て奈良に向かう(正確な離村の日は不明だが、志賀が準備した仮寓に入ったのは12月末、奈良の住居がきまったのは、1月7日である。)。

○米麦前年に同じ、水不足続く。野菜たくさん。

○村に印刷所(6坪)を作る。ドイツのレクラム文庫にならって、日本最初の文庫本「村の本」刊行。

1926年
(大正15年)

○大人34人、子供4人、合計38人。

○農事関係は前年とあまり変わらず。梨棚をつくり始める。

○川島の家5坪、坂井の家6坪、房子台所3坪、上田の家5坪などが出来る(家は今のところ20戸、人35人、云々と通信19号に書いてある。)。

○1月ひと先ず奈良に居を定めた実篤は早速村外活動をはじめ、奈良、京阪神の会員活気づく。しかし、今度は正直云って金の方で随分参った。村へやっと1,000円送ったことになり、一安心と思っている所に1,700円、他に水路の方の借りが四百何十円あると村から知らせを受けたとき、実際どうしようかと思った。幸い神戸の直木さんに1,000円拝借できたので、気がのんびりした(通信20号雑感)。この頃の1ヶ月の経常費5,600円。その他臨時費が多く、それを実篤は自分の責任かのように工面した。村義との自活についていろいろやっていた。

○高い理想を持って家具製作(木工)の試み始まる(野井)。

○今日隊道が貫通しました。延日数百三十五日位です。幸いにけがもなく一番危険な仕事が終わったので一安心です。お祝と休養に2日程休み、そしたら稲岡を自分とで水路全体をある知恵之からの細かい計画を立てる積もりでいます(通信28号、古川芳三、水路のこと)。

○水路が出来て、3町歩程開田出来れば今の人数の自給自足が出来るのですが、農場用一切の費用も収穫の余裕で弁じるのが当然です(古川)。

○米、麦、野菜は、だいたい前年通り馬1、鶏25、この時代の経費は毎月5、6百円。

○1月、実篤奈良市水門町に転居。昭和14年埼玉県に「東の新しき村」を創るまで、毎年2度は訪村、執筆活動で引きつづき村の財政を支える。曠野社実質的に解散。

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